フォーム
西教寺について
西教寺略縁起
西教寺は正しくは、 天台真盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺 (てんだいしんせいしゅうそうほんざんかいこうさんけんほっしょうさいきょうじ)といいます。聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈、慧聡のために創建されたと伝えられています。その後、久しく荒廃していましたが、慈恵大師良源上人が復興、念仏の道場としました。
鎌倉時代の正中2年(1325)に入寺された恵鎮(円観)上人は、伝教大師が畢生の事業として提唱された大乗円頓戒を復興、その後百有余年を経た文明18年(1486)に真盛上人が入寺されるに至り、堂塔と教法を再興、不断念仏の道場とされました。以来全国に約四百余りの末寺を有する総本山となりました。
真盛上人「身代わりの手白猿」
室町時代の明応2年(1493)坂本で徳政一揆が起こった時、その首謀者が真盛上人と誤解した山門の僧兵が西教寺に攻め入った。しかし境内には人影がなく、ただ鉦の音だけが本堂から聞こえてきた。それを聞いた僧兵が本堂に駆け込むと、そこには一匹の手白の猿が上人の身代わりとなって鉦をたたいていた。日吉山王の使者である猿までが上人の不断念仏の教化を受けて念仏を唱えていることに感じ入った僧兵はその場を立ち去ったという。
宗祖真盛上人(1443~1495)
宗祖円戒(えんかい)国師慈摂(じしょう)大師真盛(しんせい)上人は、伊勢国一志郡小倭荘大仰の里(今の三重県津市一志町大字大仰)出生。紀貫之の一族で14歳で出家、19歳の時に比叡山に上り慶秀和尚に師事、20年間山に籠もられ天台の学問を究められました。
当時は応仁・文明の乱が続く下克上の時代でしたが、上人は教化指導者として深く内省せられ、文明14年黒谷青龍寺に入り日課六万辺の称名念仏を修め、社会の秩序を正し世人に安心立命を与えるには、道義を強調する円戒と弥陀本願の念仏以外には無いことを悟られ、文明18年(1486)西教寺に入寺し朝廷・公家・武士・庶民へ持戒と念仏の布教を行われ、西教寺を戒称二門不断念仏の根本道場とされました。
以来、その足跡は江州・越前・伊賀・伊勢を中心に広がり民衆の信仰を集めるところとなりました。
室町時代の明応4年(1495)伊賀西蓮寺にて病に倒れ、無欲清浄専勤念仏を遺誡として、53歳で遷化されました。
西教寺と明智光秀
元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際、当寺も災禍を被りました。
その直後に築かれた坂本城の城主となったのが明智光秀でした。光秀は西教寺の檀徒となり、復興に大きく力を注ぎました。総門は坂本城城門を移築したもので、鐘楼堂の鐘は陣鐘です。天正10年にこの世を去った光秀は6年前に亡くなった内室熙子や一族の墓とともに祠られています。
トップページへ